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執筆者の写真江川誠一

あれから21年(2016年に執筆)

更新日:2021年1月17日

3連休明けの朝5時46分。

なんの前触れもなく、これまで経験したことのない激しい揺れに襲われる。

当時私は、都市計画やまちづくり分野のコンサルタントをしていた。

そしてまさにその日その時間、クライアントである某自治体との打合せに向け、事務所に泊まり徹夜で仕事をしていた。

大阪市中央区谷町四丁目のビル9階。なすすべもない長い時間。動くことも考えることもできなかった。

唐突に揺れが収まり、何事もなかったかのように元の静寂が訪れる。

奥の会議室で書類棚が倒れている。そこは徹夜するときの仮眠部屋。

寝ていたら... とまでは想像できた。

だが、実際に30kmほど先のところで、建物の下敷きとなった方が数多くいたとは...

あんなに強い揺れだったにもかかわらず考えが及ばなかった。

パソコンは無事、電気や水も問題ない。

ガス栓をひねらないというところに、少しだけ冷静さが残っていた。

人に会いたいとでも思ったのだろうか。

無謀にもエレベータで1Fに降り、近くのコンビニへと歩く。

一旦、欲しくもないペットボトルを手にしてレジへ向かう。

早めの朝ごはんを買っておいた方がいいかなと思い直し、そして遊び心が写ルンですを選ぶ。

二十歳前後のお兄さん。物が散乱する店内でマニュアル通りの接客。

手順と違う言葉を掛けてみる。互いにパッと笑顔になる。「東京か静岡ちゃうか...」そんな話をした。

無責任な発言。当事者意識はゼロ。冷静という名の逃避。いや、静かだが明らかに興奮状態。

事務所に戻り、被災状況を一人無邪気にカシャカシャ写す。

強いストレスを感じるような異常な状況に陥った際、人は「正常の範囲内。大したことない。自分は大丈夫だ」と考えることで自身の感情をコントロールすることがある。

これを正常性バイアスという。

このときの私はそれに支配されていたのかもしれない。

テレビをつけるが決定的な情報はまだ。深刻さはない。むしろ素っ頓狂なテロップが流れていた。

当時はインターネット黎明期。SNSは影も形もない。

外部からの"情報"で正常性バイアスが一層強まり、そして仕事に戻る。

イマジネーションがまったく働かない。

キーボードを強く叩けば叩くほど、直後の〆切のほうが恐ろしい現実となり、心にのしかかってくる。

そして、直前の衝撃を遥か彼方へと消しさっていく。

やがて、つけっぱなしにしていたテレビから、ヘリに乗ったリポーターの声が響く。

阪神高速道路が倒壊。あちこちから煙があがる神戸。

よく通る道路が、好きな街が... テレビの向こうが現実だった。

パソコンに向かってすぐに神戸が焼けるのを見た気がしていたが、調べてみるとこれらの映像は8時すぎに流れていたようだ。

どうやら2時間ほど働いていた...

ようやく仕事を止める決心がつく。

9時に先方(府庁)から打合せ中止の電話連絡があった。

受話器の向こうはおかしいくらいに饒舌だった。興奮して声が弾んでいるようにも聞こえた。

「焼けたところは手がつけられなかったところ。これであそこの都市計画が一気に進む」

笑いながらの言葉を無視するのが、当時の私の精一杯の反発だった。

甚大な被害はまちづくりの敗北でもあったと、早い段階で感じた。

その思いは被災状況を見聞きするにつけ、日に日に、徐々に強まっていく。

しかし、被災地に対する支援は何もしなかった。

もともと綺麗事の嫌いな私は、絶望的な現実に強い無力感を覚えた。

そして、被災地へただ心を巡らすことは自己満足であり同情に過ぎず、むしろそれをシャットアウトすることが私の現実的な解だと信じ込んでいた。

仕事で関係していたら、この偏った考えは少し変わっていたかもしれないが...

何もしなかった私に、先の電話主を責める資格はない。

当時の私は、理屈っぽく考え過ぎていた。

できることはいろいろあったし、もっと単純に考えて行動してもよかった。

金持ちの人、ヒマな人、経験者、専門家、当事者、安全なところにいる人、動く人、考える人、なんかしたい人。

それぞれの持ち場でやれることは必ずある。

1週間前に、とある友人と約21年ぶりに話す機会があった。

当時、その友人とは7年ほど会っていなかったがアドレス帳の住所は神戸、震災後1ヶ月ほど経ってから連絡をとり、自宅は被災したが家族を含めて無事なことを確認したのを思い出す。

「あれから21年か。懐かしいね」と言い合える幸せをかみしめた。



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